歴史と大祭
峰本院の歴史
当山は元亀二年(1571)十二月十六日天野小四郎景直により開山され火防の守護神として近郷に名高く、古くは宮家、大名の祈願所として尊宗を得ていた由緒ある寺院であります。
有栖川宮熾仁親王殿下騎馬像
明治三十六年十月十日三宅坂(参謀本部の傍)に有栖川宮熾仁親王殿下の騎馬像が建立され、数々のご勲功が表象された銅像建立に関し他の三人の御付武官と共にこの模型の銅像を里澤源三郎将軍が拝された。
秋葉山本坊峰本院は有栖川宮御祈願所として同宮家の御祈願の旨、御申し入れ有りこのことを察知された黒澤家遺族に於て昭和二十年寄進された銅像模型を石像にしたものである。
同宮家廃絶して後は、大正天皇第三皇子光宮宣仁親王が有栖川宮の旧称と高松宮の称号を賜りその後祭祀をお継ぎになり、当山は高松宮御縁故として歴代天皇尊儀のお位牌、有栖川宮家、高松宮家の累代のお位牌を安置しております。
沿革
戦国時代武田信玄支配の江尻城、袋城等の軍備経済施設などに相呼応江尻に隣接し、清水港を一望に眺め且つ東海道に沿える西久保の真土山(まつちやま)に遠州(現浜松)秋葉山三尺坊大権現(犬居城隣接地に奉安してあった)を遷座し、且つ修験道行者若干を糾合しました。
平素は宗教的行事の職務に当たらしめ有事の際は、軍事密使とし助力せしめる為に企画されたもので、此れ武田氏以下有力幹部公認合意の下に駿州秋葉山有事に際しては、秋葉城砦としての開山、僧坊としての峰本院を建立し天正四年犬居城陥落後止むなく武門として再起する希望を棄てた景直は出家を遂げ、名を日光と改め秋葉山本坊峰本院第一世の住職となりました。
秋葉山 大祭について
毎年清水の最後の祭りとして県内外より信仰を集める祭りは、十二月十五日、十六日の両日行われます。数十万人の参詣者で賑わいを見せます。
なぜこの時期に祭典が行われるかは戦国時代までさかのぼる事、元亀二年(1571)十一月十六日初めて祭ると古文書に書かれております。
それより毎年十一月十六日に祭典を執行しておりましたが、現在では太陽暦により十二月十五、十六日に祭典を執行いたします。
大祭の概要
十五日は纏行列が行われて午後に辻町より山上の本堂迄約一キロの間、清水の各消防団が所蔵している纏が一同に集い江戸町火消しさながらの行列が見学できます。
十六日は夜火渡りの修行が行われます。夜八時に各、峰本院、福昌院栄松院より山伏が登り本堂で点火された松明の火が移されます。一般の渡り始めは九時頃になりますが、渡り始めと同時に四方の青竹が倒され笹の葉が取り合いになるのがここ数年の風物になっております。
そもそも竹取り合戦は神事には何の根拠もなく、酔った群集の勢いで始まった事です。今では笹を持ち帰ると家内安全のご利益があるといわれております。
秋葉山の火渡り
十五日は纏行列が行われて午後に辻町より山上の本堂迄約一キロの間、清水の各消防団が所蔵している纏が一同に集い江戸町火消しさながらの行列が見学できます。
十六日は夜火渡りの修行が行われます。夜八時に各、峰本院、福昌院栄松院より山伏が登り本堂で点火された松明の火が移されます。一般の渡り始めは九時頃になりますが、渡り始めと同時に四方の青竹が倒され笹の葉が取り合いになるのがここ数年の風物になっております。
そもそも竹取り合戦は神事には何の根拠もなく、酔った群集の勢いで始まった事です。今では笹を持ち帰ると家内安全のご利益があるといわれております。
秋葉山信仰について
秋葉山信仰はそもそも火之要慎のお礼を、かまどの上に貼り常に文字を見て確認を励行し、大火にならぬようお互いの家又は町全体を守るために広まった信仰です。
今でも、地震、雷、火事、云々…という通りです。
東京の「秋葉原」という地名も秋葉信仰が盛んな頃、常夜灯籠が並び江戸城の火防の守護をしていた名残だといわれております。
清水にも数ヶ所江戸時代の常夜灯籠が残っております。